NPO法人スポーツコーチング・イニシアチブでは、DOUSHI~これからのスポーツ教育の話をしよう~ というコミュニティを運営しています。
このコミュニティとコーチング・ステーションのコラボ企画として、オープンインタビューという企画があります。この記事では、オープンインタビュー企画として、NPO法人ボウタカ 代表で筑波大学アスレチックデパートメント の米原博章さんをゲストにお迎えして、スポーツにおける「Good Sports, Good Future.」ついてお伺いしました。
「もっと高く飛びたい」という思いに突き動かされるように始めた棒高跳び
河野
よろしくお願いします。まずは自己紹介をお願いできますか?
米原
はい。米原博章と申します。1993年9月11日生まれの現在27歳で、今は筑波大学のアスレチックデパートメントというところで、スポーツアドミニストレーターという職をしております。
簡単に言うと、学校スポーツというのを題材にして、もっと学校の学生が成長できるような機会を作りたいというところだったり、学校を盛り上げていきたくて、地域と大学のつながりだったり、地域と企業と大学のつながりなどを円滑に生んでいけるように、教員ではできないところを、スポーツアドミニストレーターという一職員として取り組んでいます。
河野
ありがとうございます。というところで、どんどん質問していきたいなと思っているんですけども。
米原さんは、棒高跳びが専門ということなんですけど、まずご自身の競技を始めたきっかけを教えてください。
米原
はい。僕は棒高跳びをスポーツのなかで一番、専門の種目としてやっています。僕自身が棒高跳びを始めたのは中学1年生のときです。最初はもともと「高く跳びたいな」と思って小学校のときの陸上クラブで走り高跳びをやってました。
その陸上クラブで出ていた陸上の大会で棒高跳びをやっている姿を見て、「いやこっちのほうが高く跳べるやんけ!」って思ったんですよね。
偶然そこで跳んでいた方が、僕の地元のもともと顔なじみの年上の先輩だったので、自分でもやってみたいと思って、その人に最初に「跳んでみたいです」といったのがきっかけです。それが最初の棒高跳びとの出会いで、実際始めたのは中学になってからですね。
河野
意外とあっさり始めたという感じだったんですね。ちなみに棒高跳びをやってみてどうたったんですか?始めた頃って、「つまんないなー」と思ったのか「めっちゃ楽しい!」みたいな感じだったのか。
米原
めっちゃ楽しかったというか、今でも楽しいんですけど、いつまでも練習できるような感じですね。棒高跳びってどこでもできる種目じゃないので、僕が始めたときも週に1回練習できるかどうかみたいな感じだったんです。
学校では陸上部で普通に走ったり、幅跳びしてみたり、ハードルしてみたり、いわゆる普通の陸上をやっていたんですけど、週末だけ父親に棒高跳びができるところに連れていってもらって、週末だけやっていたので、もう時間が足りないぐらいでした。時間いっぱい、日没になるまで跳んでましたね。
河野
すごいな、跳びまくっていてすばらしいですね。しかも楽しくて仕方ないという気持ちで。
ちなみに、高校も棒高跳びをやっていたんですか?
米原
そうですね。中学1年生で棒高跳びを始めて、高校・大学・大学院と十何年間は棒高跳びを一番メインのスポーツとしてやっていました。
今はちょっともう、社会人になってやる機会がほぼないんですけど(笑) 5m20cmというのが自己ベストでした。
河野
5m!すごいですね。ちなみに大学は、棒高跳びにハマっていたからスポーツ系のところに行こうみたいな感じですかね?
米原
そうですね。僕は福岡で生まれたんですけど、高校生になるちょっと手前のタイミングで、「棒高跳びがしたい」という思いが一番あったんです。そこで、いわゆる名門といわれるような高校が香川県にあったので、単身で県を越えて、香川県で棒高跳びの特待生みたいな感じでやってました。
大学を選ぶときに、スポーツのことをやりたいなと思っていたのでいくつか声かけてもらった大学の中のひとつに筑波大学がありました。思う存分棒高跳びができるなと思ったので筑波大学に行ったんですよ。決め手は、跳びたくて行ったというのが一番の理由ですね。
競技が好きだからこそ自然と踏み入れたコーチの世界
河野
そこから研究のほうに携わったり指導の面で携わったりしていると思うんですけども。そのきっかけは何ですか?
たとえば、ずっと選手ではなくてそこの切り替わりというか、何かきっかけがあったのかを教えていただきたいなと思っています。
米原
切り替わったというよりも、大学生になってからいろんな形でいろんな先生に会っていく中で、いろんなところで棒高跳びを学ぶ機会がどんどん増えてきたんですよね。 その中で教えてもらう立場から教える機会が自然と増えていったというのが、たぶん大学時代だったと思います。
例えば中学生だったり高校生だったり、後輩に「もっとこうしたほうがいいんじゃない?」とか、「こうやったらどうだろう」と教える機会が増えていったというのが、コーチングというものに触れ始めたひとつの機会だったのかなと。
あとは研究でいうと大学2年生・3年生ぐらいのときに研究室を選ぶタイミングがあるんですけど僕的には、最初はスポーツ経済みたいな感じで経営とか産業とか、いわゆるちょっと賑やかなところが好きだったので(笑)そういうスポーツビジネスみたいなことが面白そうだなというところがありました。
ただ、自分の陸上部のコーチだった先生がコーチングの研究室を持っていて、最初はコーチングの勉強がしたいと思ったわけではないですけど、なんとなくそこの研究室に最初入っていったというのが、コーチングの勉強をするひとつのきっかけでしたね。
実際に卒論をやってみたり、大学院で勉強していくとなったときに、どんどん「コーチってなんだろう?」みたいなところにちょっとずつ深く興味を持っていって、いろんな論文を読んでみたり、研究修論とか卒論のテーマにそういうキーワードが並んでみたり、そんな感じだったのかなと思っています。
河野
なるほど、結構競技寄りの人なんだなってすごく今感じましたね。それこそ今までインタビューしてきたなかだと、恩師というか「こういう憧れのコーチがいて」とか、誰か目標みたいな人がいて、そこからコーチになったり研究者になったりというのがありました。
ただ今のお話を聞くと、米原さんは競技者としてやっていくなかで、どんどん気になっていって調べていった結果コーチングという領域に足を踏み入れたんだなというのを感じたので、今までインタビューした方とちょっとまた違う視点だなと感じました。
米原
そうなんですね(笑)競技を極めていった結果だと思います。
河野
ちなみに後藤さんは。僕は大学でスポーツをガッツリ学んでいるというタイプじゃないですけども、後藤さんはガッツリ学んでいるタイプだと思うので。何か質問とかありますかね?気になったこととか。
後藤
そうですね、その「コーチってなんだろう」って強烈に疑問を抱いたシーンとかあったりしますか?
米原
そうですね、なんかシーンじゃなかったんですよね。たぶん、すごく自然にいろんな先生たちと会って教えてもらっている中で感じてきたことなんですよね。高校、大学と学校が切り替わるタイミングで徐々に、「まあこういうもんだな」というのもありましたし。
大学でコーチをしてくれていた 図子 先生が僕の大学時代の恩師なんですけれども、入学した段階から、陸上部のミーティングのなかで「指導者と選手の関わり方って、指導型から付き添うような形にどんどん変化していくからね」と当たり前のように聞いていました。
その中でジュニアの選手からトップ選手になるというのは、コーチと選手の関係が変わっていくものなんだなと思っていたこともあってそれが自然と起こっていたところはありました。
僕はどちらかというと、論文とか本を読んでいくなかで「ああ、こんな考え方あるんだ」とか「だからこうやって今言われているんだ」というのを、後から自分の実体験を文献を通して論理的に説明されて埋めていったという感じだったなと思うので 「コーチとはなんぞや」と考えるきっかけが事件的に起きたというよりは、環境がいろんなコーチの在り方を見せてくれていたんじゃないかなと思っています。
日本と海外とでは、環境そのものが大きく違うことに気づいた
河野
大学に進学して、そこからの米原さんの活動というか、それこそ今社会人だと思うんですけれども、そこに至るまでどんなことがあったのかを教えていただきたいなと思っています。
米原
そうですね。大学は先ほど言ったように陸上で棒高跳びばっかりしていたなかで、修論を書くくらいになったときかな、一度、アメリカのコーチ・バトラーというコーチが日本に来るという話を聞いて、なんか会いたかったんですよ。
結局、棒高跳が好きだったのと、いろんな教え方があることを知りたかったからすごく興味を持って、3日間あった練習会に全部参加したんですね。
そのときに、僕が今まで思っていた「棒高跳びってこうやるよな」みたいなのがありました。それこそ10年ぐらいずっと同じことをやっていると「こうやれば跳べるな」みたいのが、なんとなく頭の中では整理できていたものを、少しこう、ぶっ壊されたような瞬間があったんです。
「どうやら、見知らぬものが海の向こうにはあるんじゃないか」って思ったんです。 その3日間が、すごく衝撃的で終わった日に解散になる前に、そのコーチ・バトラーの元に行って「あなたのところでプレーがしたい」というか、「コーチをやってほしい」とお願いしたら、その場で「いいよ」という答えをいただきました。
そこから、手をつけていた修士論文を一回やめて、完全に留学することにしました。絶対にそこで教えてもらいたいという強い思いがあったので、そこに行くための準備を1年間ぐらいかけてずっとしていました。
そのときに、自分が競技者としてあまりいい言葉かわからないですけど、諦めの部分があったというか「自分がオリンピックで金メダルを取る選手じゃないんだな」という思いがあったんです。
やればやるほどオリンピックで金メダルを取る選手と、日本のトップを争う選手というところの差がまだあることを知って自分自身がオリンピックで金メダルを取るところのラインにいないなと感じたので、コーチとして日本の棒高跳び選手からオリンピックで金メダリストを出したいなという思いが、その辺で強くなっていきました。
そのためには世界のトップで戦う人たちのコーチングについて自分が理解してないとこれから先はやっていけないなという思いがあったので、競技者としてももちろん知っておきたいこともあったし、将来コーチとして世界で戦うために知っておきたいという部分もあってアメリカに行きました。
アメリカに行ったら本当に向こうでよくしてもらいました。アメリカテキサスのヒューストンというところにあるライス大学でプレーしていたんですけど、偶然アシスタントコーチの枠が空いていて僕をアシスタントコーチの枠に入れてもらってワンシーズン一緒にコーチングしながら選手もしながらみたいな経験をさせてもらいました。
そのときに一番大きく思ったことは、アメリカって棒高跳びでいうと世界のトップレベルの選手を何人も出しているような先進国で(柔道で言ったら日本みたいな)そういうアメリカの棒高跳びの テクニック って、世界のトップレベルなんですよね。
世界大会オリンピックに行くと結局アメリカで学んだ選手が勝っているみたいなところがあって、そこで学べば僕も世界一の選手出せるんじゃないかみたいな浅はかな考えを持っていたんです。
でもそこで気づいたのがコーチの質・コーチが思う存分コーチングするための環境・人と人とのつながりの日本といったことが整備ができていない以上、僕が日本に帰国してもなかなか難しいんじゃないかなということに気づきました。
やっぱり学ぶこともテクニックを学ぶという必要性と同時に、アスリートが競技をする環境と同じレベルかそれ以上にコーチがコーチをできるための環境づくりというのが非常に重要だなとアメリカで感じました。
一番はコーチとして活動したいなという思いで留学はしていたんですけど、帰国するタイミングでまずコーチとして活躍する前にもっと学校の部活動の現場だったり、スポーツの現場の整備みたいなところをちゃんとやらないと、たぶんやりたいことって本当に一瞬しかできないなと思ったのでコーチの 路線 から筑波大のアスレチックデパートメントという、学校スポーツとかスポーツのもっと大きな枠組みのところの整備に、今自分の時間を割きたいなと思って、ここで働いているという感じです。
河野
すごくいい話なのでどんどん噛み砕いていきたいなと思っているんですけど、コーチ・バトラーについて教えてもらえますか?
米原
コーチ・バトラーは人の名前で、“コーチ、デヴィット・バトラー”というフルネームで僕らは、コーチ・バトラーと呼んでいます。バトラーさんと一緒に1年間やりましたね。非常に癖の強いおじいちゃんなんですけど、とても素敵な時間を過ごしました。
河野
ちなみに、アメリカの留学環境で学んだことのなかで日本とアメリカでスポーツ環境が違うなというところがあれば教えていただきたいです。
米原
これはたぶん、今の僕の仕事にもつながるところなんですけど、僕が行ったところがアメリカのライス大学というところでした。大学スポーツの話をすると、日本の高校生とアメリカの高校生ってだいたい同じぐらいのレベルで競技しているんですよ。
でも大学に行くとトップの子たちの層の差が一気に広がって、そのまま卒業後のオリンピックとかの差に広がっていくんです。何が一番違うかというと、そこで指導しているコーチですね。例えばテクニックのコーチがいたり、ストレングス系のコーチがいたりトリートメントするトレーナーの人たちがいるんです。
彼らが本当にその仕事(コーチ業)に24時間、時間を割けるというところが一番の違いだなと思いました。それに対して投資できる世の中の環境があるというところだったり学生自身も、学校に行きながら競技と学業に没頭できるというバランスが一番違うなと思いました。
日本だと、コーチはサブの仕事を持っているから休日だったり空いた時間とかで、給料をもらわずにコーチをする機会のほうが多いと思います。
実際にプロ野球とかBリーグとか行くと、やっぱりトップのプロコーチがいて24時間ずっとその競技のことを考えるコーチの方がいると思うんですけど、それと同じようにお金をもらってコーチをするという人たちが各大学にいて、しかもそのコーチたちが各大学ごとで情報交換をめちゃくちゃしまくっているというのをすごく感じて、そこが日本とアメリカの一番の違いかなと思いました。
後藤
別にこれは答えがあるわけじゃないと思うんですけど、アメリカではスポーツ指導だけでちゃんと生活が成り立つ仕組みがあるのに対して、日本ではそれがまだあまりないというところの、圧倒的な違いというかそこは何なんだろうなと純粋に思ったんですけど。
米原
一番のその違いをアメリカと日本で比べてしまうと、結局そのスポーツ、大学スポーツでお金を埋めるか埋めないかという、すごく単純なところの違いになってくると思うんです。
大学自体が「スポーツに投資する」というのを、オフィシャルにできているところが大きな違いじゃないかなと思います。これがたぶん、ヨーロッパと日本で比べてしまうと、今度はそれが、大学とスポーツという関係じゃなくて、地域とスポーツという関係。
地域とか行政がスポーツに対してお金を出すというのをオフィシャルでやっているので、コーチがそこで24時間コーチングができるという姿がヨーロッパにはあります。日本はそこが現場にすべて委ねられているというか、お金を持っているチームはコーチを雇えるけど、お金を持ってない民間のクラブだったり学校についてはやっぱりボランタリーになったり、パートタイムになるので そのクオリティと責任感が全然違うなと思います。
お金がすべてではないですけど、それだけもらっているというところと、そこに仕事があるということでやっぱりそこにかけられる時間と熱量は違うなとまざまざと感じたなというのが一番ありました。
日本に導入できそうな海外の環境とは?
河野
アメリカの環境で学んだことで、「これだったら日本に導入できそうだな」とか「こういうことだったらできるんじゃないか」とか「こういう風にしていったほうがいいんじゃないかな」というのがあれば、教えていただきたいなと思うんですけども。
米原
ひとつは、今本当に自分が筑波大のアスレチックデパートメントというところでやっていることのひとつなんですけど。本当に、大学としてスポーツというものを、必要であるものとして位置づけてちゃんと投資をしたり、予算を付けるための仕組みだったり。スポーツ現場の人たちがそこを論理付けすることがすごく大きな枠組みで必要だなと思っています。
やっぱり、なんとなく人が集まってスポーツをしているだけじゃなくて、学校にこれがあることの必要性みたいなところをもう一度問い直すことが必要かなと思います。
現場の目線でいくと、ある程度コーチをする人自身がちゃんと学び続けるというのを肝に銘じることというか学ぶことをやめたらコーチングできなくなるよね、みたいな。 その最低限のラインをコーチ自身がちゃんと持っておくのはめちゃくちゃ重要だなと思っています。
アメリカのコーチの人たちは、どのレベルになってもコーチ同士で学び合いをしていてコーチを統括する組織は教育プログラムを出しています。それを受けることによって、コーチングがアップデートされ続けているなかで、世界一のコーチがさらに学んでさらによい選手を輩出するみたいな感じですね。
その繰り返しをやっているので、コーチ自身もコーチとして選手に何か伝えたり、教えるという立場を選んだ以上は、選手以上にコーチが学び続けるということをやめないという意識を持っていて、とても重要だなと思っています。 仕組みのところは、組織自体がちゃんとやっていく必要はありますけど。
後藤
そうですね、まさにコーチとして学び続けるというところでいうと、国際人権団体のヒューマン・ライツ・ウォッチが2020年の6月か7月頃に出したレポートがあるんですけど、日本のそもそものスポーツ指導の現場でいうと、指導者が学ぶ機会が不足しているとかなり言われていますよね。
そういった意味でも、指導者が学び続けて自分の指導をアップデートしていくことの重要性は、今の話に紐づいてすごく重要だなと感じましたね。
米原
そうですね。あとは、学び続けられないひとつは、やっぱり学んでもそこに対する対価があまりにもなさすぎるというのがあるんじゃないかと思っています。
お金じゃないという言葉もあると思うんですけど、その分を犠牲にする時間があるので、そこはすごく重要かなと僕は思っていますね。学び続けたいと思えるような環境を作っていく作業とか。
あとは、学んでもいいと思えるのは、コーチがある程度余裕を持っていないといけないので、コーチ自身も指導に特化しすぎず、バランスよく生きるというライフタイムバランスみたいな。その辺がすごく重要なのかなと思ってます。
これは本当に、ダブル・ゴール・コーチングだったり、ポジティブ・コーチングを勉強すればするほど、そういうことがなおさら合点がつくという感じだなと思っています。
「最高の学校スポーツプログラムを作る」
河野
現在どんな活動しているのかとか、あとはそのなかでこんなことを書いていきたいみたいなところがあれば教えていただきたいです。
米原
はい。今の活動というと、先ほどから僕が言っている筑波大学のアスレチックデパートメントというところにいます。
僕たちがビジョンにしているのが、「日本の最高の学校スポーツプログラムを作ろう」というのをひとつビジョンにしています。
最高の学校スポーツプログラムって何? ってなると思うんですけど、僕らがそれを目指しているのは、学校にあるスポーツを通じて一人ひとりの生徒だったり学生が最大限成長できる機会を提供していくことだと思います。
それをするために何が必要かというと、スポーツの価値を最大化させていって、地域だったり企業だったり社会からそのスポーツを応援してもらえる。それによってある程度のお金が入ってくることで、学生が成長する機会に対してどんどん投資していく。
やっぱり僕がアメリカで見た世界のような、そんなに大きなものになるかはわかりませんけど、そういうものを目指していきたいなと思って、今やっております。
今、その大きな「最高の学校スポーツプログラムを作る」というすごく大きなビジョンに対して、いろんな取り組みをやっています。
本当に大きすぎて、簡単に説明しにくいんですけど、学校のなかの仕組みを変えていくことと同時に、チームのマネジメントだったり、チームの活動の内容を徐々に充実させていくための取り組みです。
それからもうひとつ、地域だったり社会とつながって、いろんな取り組みをやっていこうみたいなこともやっています。たとえばスポーツ教室もそうですし、実際に地域に学生が出向いて社会の方々と交流する機会を作っていったり、キャリアの支援をしていこうみたいなところもあります。
結構いろんな、多岐にわたる取り組みをやっているなかで、僕が大学時代に「棒高跳びばっかりやっている少年」みたいになっていると思うんですけど(笑)同時に、スポーツを使って場づくり・人づくり・街づくりというのをテーマに大学発ベンチャーでインターンとして働いていました。
そこでは何をしていたかというと、スポーツを使って企業研修をやってみたり陸上とは関係ないスポーツの国際大会を主催して開催してみたり。
あとは、お祭りのなかにスポーツに触れるためのエリアを作って、そこに人がどうやったら集まるかとか、どうやったらスポーツをしない人たちがスポーツを楽しめる空間を作れるかみたいな。そういうところに対して、大学時代の競技と学業ともうひとつの時間は結構そこに使っていたなと思います。
そこでやっていた取り組みやトライが、意外と今やっている仕事にもつながっていてこういう世界を作りたいときってこういうことやれば面白いんじゃないかな、みたいなアイデアをわかせてみたり、ということがつながっていますね。
河野
ちなみに、そこの気づきとかアイデアとかがあったりしますか?
米原
スポーツって使い方は無限大だと思っています。やっぱり、競技 スポーツ というところでいうと、ひとつ極めていって大きなパフォーマンスを発揮するという一直線上にものがあるので。コーチとして考えるときって、ひとつ突き詰めるというのがあると思うんですけど、そのなかにも遊びという要素もあれば、スポーツがあることによって何かに気づくきっかけを生むこともできると思うんですよね。それが、プロフェッショナルスポーツじゃないからこそできることもあったり。
スポーツを見るという瞬間に対しても、どうやってそれを見るかによって、やっぱりただのエンタメになるときもあれば、そこからまた「学び」というものにしていくこともできます。
地域の交流を生むとなったときも、するのか見るのか支えるのか、みたいところでまったく得られる価値も変わってくると思うので。そういうところを多角的にやれたのが大学時代だったなあと思っています。
河野
それこそ米原さんの人生のなかでも棒高跳びというスポーツの競技からどんどん派生して、コーチにいってみたり研究してみたり、それがきっかけでアメリカまで行っちゃったりだとか。それがまた今の活動につながっていたりだとか。それってやっぱり「スポーツ」がきっかけだったと思うので。
単純に、勝つ・負けるみたいな、例えば僕はオリンピックの金メダルの数勝負がすごく嫌いなんですけど(笑)そういったところの価値が再定義できるといいなと思いました。
米原
すごく単純ですよね。金メダルの数ってすごくわかりやすく競技力を測れたりして。あれがあることでもモチベートされて国民が熱狂できるので、またひとつ面白い観点で。あれもたぶん「金メダルの数」というのを使っているだけだと思うんですよね。
金メダルが1か2で、それだけで多くの人の心が揺れるというのも、スポーツがそれだけの価値を持っているからこそです。
あのひとつの数字がだいぶでっかい意味を持っているんだなとか思ったりなんかいろいろ、面白いなって僕は思っています(笑)全部楽しいな、みたいな。
棒高跳び超特化型感NPO法人「ボウタカ」
後藤
今、筑波大学のアスレチックデパートメントとは別にもうひとつ、NPO法人ボウタカというところでも今、代表理事をされているので。そっちの活動とかももうちょっと詳しくお聞きしていいですか?
米原
ありがとうございます。先ほど大学時代の活動の話をしたんですけど、そのとき「Good Sports, Good Future.」というのを大きなスローガンにしてすべての活動をしていました。
いいスポーツがあればいい未来が生まれるみたいな、いわゆるそういうことなんですけど、そのなかのひとつが筑波大のアスレチックデパートメントだなと思って僕は今やっているところがあって。
もうひとつ、やっぱり棒高跳びというのは僕から切っては切り離せないスポーツだなとは思っています。やっぱり今まで、自分自身が中学校から始めて、高校時代も親元離れて一人で乗り込んでいった香川県ですごくいろんな人に支えてもらいながら競技ができたところもありましたし。
大学時代もこれを通じていろんな方と知り合うこともできたし、実際に自分がすごく素敵な経験をさせてもらえたなと思っています。
実際にアメリカに行くと言ったときも、周りの人たちがすごいたくさんの情報を教えてくれたり、空港に行くときなんていうのも、空港にポールを持っていかなきゃいけないんですけど、そうなったときにポールを運んでくれる人もいますし、空港でそのポールが載る・載らないって言って空港の職員があたふたするみたいなこともあって、そんなときも結構、支えてもらったりということもあります。
やっぱり、すごくいろんな人に助けてもらいながら僕はいい経験をしてきたので。今度は、これを次の世代だったり僕が見てきた世界を見ていない人たちにシェアしていかないといけないなと思っています。
自分がそれをさせてもらって今度は何かを届けることも重要だなと思っていたので、大学院時代から「Boutaka Channel(ボウタカチャンネル)」という情報発信をやっていました。
いろんな情報発信をしていたんですよ。勉強したこととかをどんどん書いていって。少しでも届けばいいなと思っていたんですけど、今社会人になって、大学生ではできなかったようなことが徐々に現実化してくるなあと思うんですね。ちょっとがんばればできることって意外とあるなみたいな。
たとえば練習会を開くってなっても、やっぱり責任を持って開けるようになってきますし、合宿を開くとなっても大人という立場で、そういう主催になれることもあるなと思って。
今まで情報発信だけでとどまっていた活動も、もっとみんな、多くの人々に対して何か意味のあるものにできるなと思ったので。ここでひとつ、NPO法人ボウタカという法人を立てたんです。
棒高跳びに対して一緒に日本の棒高跳びを盛り上げていきたいとか、日本で棒高跳びをやっている人たちにもっとハッピーになって欲しいと思っているメンバーと一緒にさまざまな活動をやっています。
今はコロナ期間中でオフラインでいろんな取り組みがやりづらいので、今はYouTubeとネットでの情報発信がメインになってきているんですけど、来年はできれば合宿とかやりたいなーとかいって、みんなで今話をしています。
棒高跳びをやっている人たちが少しでもこの協議を通じて楽しいとか面白いとか、感動してもらえたらいいなという思いでスタートしました。
河野
なるほど、超特化型感はありますよね。NPOでそういうことだけやるってあんまりないんじゃないですかね。そんな気がするんですけども。
米原
そうなんですね。まあでも、ちっちゃいコミュニティだからこそ、みんなで本当に助け合いながら。これまでの日本の棒高跳び界の歴史を見ていっても、やっぱり誰かが先導を取ってみんなで集まって情報共有とか、助け合いながら世界と戦ってきた種目なので。
ポンッと先頭に立って刺激を与えられる存在に、僕が意外といつの間にかなっていたのかなとちょっと思っていて。なので、ここは控えずに。しっかり自分、期待が高まっていることもちょっと感じたので自分がやらなきゃなという思いもあってやっています。
選手もファンも既存の垣根を越えることで見える未来
河野
実現可能・不可能って考えなくてもいいので、米原さん的に「これからのスポーツって、こういう風になっていったらいいな」みたいのってありますかね。
業界というスポーツのところでもいいですし、スポーツのビジネスでもいいですし、コーチというところでもいいですし。どういった世界でも大丈夫です。全部言ってもらってもいいですし。
米原
これからのスポーツ。一番はたぶん、シェアだと思います。 すべてのことに対して、ちゃんとシェアしていく。よくいわれるのは「野球をやっている人間が減ってきた」とか「サッカーをやっている人間が少なくなった」みたいなそういう報道があって、そこで野球が早めに選手の囲い込みを始めたとか、どこどこの競技が選手を早めに取ってみたいな。
そういうことが実際起きているんですよ。連盟さんの動きを見ていてもそうですし、協会の動きを見ていると、やっぱり「どうにもこうにも早めに自分たちの競技に囲い込む施策を取らないとうまくいかない」というような世界観に徐々になりつつあるような雰囲気は感じています。
それにスポーツって今、本当にコーチ自身も完全にリソース不足だと思っているんですよ。施設を見ても、やっぱりいい施設も減ってきていると思いますし、それこそ部活動という僕らがテーマにしているところを見ても、「野球部作れません」とか「バスケ部作れません」みたいなところもあったり、「顧問いません」みたいなところもあったり。
そういう中で、コーチ自身も「あそこはいい選手がいるけどあっちにはいない」とか、大学を見てみても「強豪校にほとんどの選手が集まってこっちには誰もいない」みたいな姿が徐々に、どんどん強化されていってるんじゃないかなと僕は今思っていて。
すべての面において、やっぱり一緒にスポーツ界は力を取り合ってやっていかないともうそろそろやばいんじゃないかなと思っています。
NPO法人ボウタカというのを立てたときの大きなテーマもそれで、やっぱり僕だけが持っているというのは一番よくない状況だなと僕自身が思っていたんです。
結局、一人が何かをつかむためにいろんな人たちが支えていたということを僕は身をもって感じたので、僕がそれを率先してシェアできる人間になりたいなというのが、今の僕自身が棒高跳び界に対して見せるべき姿かなと思いますし、それを促していくというのも必要だなと思います。
筑波大のアスレチックデパートメントでやっていること自体も、筑波だけよくなればいいという話じゃなくて、やっぱり日本中が本当によくならないと「そろそろスポーツどうすんの?」みたいな世界になりそうだなというのをすごく感じているので、それはやるべきかなと思っています。
河野
なるほど。この競技だからこう、この競技だからこうとかじゃなくて、やっぱりスポーツ業界として何かをしていくべきだというところですよね。 「シェア」というところの使い方というか、表現が面白いなって思いました。
まさに、リソースも不足してきているし施設も少なくなってきているからこそのシェアもあるでしょうし、その競技だからここはこうで、といって囲っておくのではなくて、それをシェアしてみるとかもあると思いますし。すごくキーワードな気がします。
米原
たぶん、個別最適しすぎているんですよね、今ほとんどの種目が。ファンですら囲っているので。 サッカーファンで野球もファンだって人って少ないでしょうし、バスケファンは野球とサッカーを見ていない人たちが今見ているでしょうし。すべてに対してカテゴライズしていって囲っていって市場のなかを埋め尽くしているみたいな感じ。
スポーツはやっぱり勝敗だから陣取り合戦みたいなところはあるんですけど、それもやっぱりシェア、というか「シェア」って言い方でいいのかわからないですけど、「あっちもこっちもスポーツ楽しいよね」みたいな姿をスポーツ界がどんどん作っていかないとどうにもこうにも難しいかなと、ちょっとずつ思っているところではあります。
そういうところで、オリンピックというのはひとつ大きなイベントとして、いいなと思ってます。僕としては今回、東京大会がいい形だったのかわからないですけど、オリンピックという看板の下で流すことで、スポーツというのを種目を超えて一緒に楽しめるという姿が、すごくあるべき姿なのかなと思っているところです。
人とエネルギーが集まる場所が活性化する
参加者
競技のシェアみたいなところにつながるかもしれないですけど, 「日本で棒高跳びが普及しているのは、群馬県と香川県のイメージがあります。なぜその県で棒高跳びが盛んなのか教えていただきたいです」という質問が来ています。
米原
これは今、群馬と香川が盛んに見えているというのは、要は今の60歳とか、結局40年ぐらい前からそこで根を張って指導をされていた方々がいたというのが大きいと思うんですね。
それまでは、過去に遡れば遡るほど日本で棒高跳びやっている人なんて本当に少なくて、あの人とあの人とあの人みたいに教えられるほどだったんです。
それ以外の人は、海のものとも山のものとも知らない飛び方を勉強してやっていたんですけど、そのなかでも遣唐使じゃないですけど、実際にアメリカやロシアみたいな外国に渡って勉強して帰ってきて、本当に伝聞していくわけですよ。
「こうやってこうやってこうやったら跳べる!」みたいな。そこに対してそれだけ注力できる方々が偶然、香川県と静岡県、それに群馬県とかにいっぱいいた。それだけの熱量を持ってそこでトライしていたからこそ、ここが発展しているという風に見えるようになってきたんだと思います。
あとはやっぱり、その地域のなかでやっぱりがんばって、熱量をもって本当にやってこられた。普及しなきゃとか、これやらなきゃ、僕が伝えたいとか。棒高跳びで何か起こしたいと思っている方がいるところは、香川・群馬に問わずいろんなところにあって、それなりの伝統のある地域になっているなと思っています。
やっぱりエネルギーですよね、そこに対する。そこをやろうとした人がいたというのが。人とエネルギーが集まった場所だなと思います。
これからも「G ood Sports, Good Future.」をスローガンに
河野
最後に、米原さんから最後の感想というか、今日の自分の振り返りというか、スポーツ界に対して喝を入れてもらっても構いませんし。これからのご自身の活動でこんなことをやっていきたいとかあればお願いしたいなと思います。
米原
はい。今日はこのような回にお招きいただきまして本当にありがとうございます。僕自身も、幼少期ではないですがジュニア時代から今までの話をお伝えすることができて本当にうれしいなと思いますし、これを聞いていただいた方々のなかで、ひとつ何かきっかけになることがあればよかったなと思っています。
僕自身は、やっぱり「Good Sports, Good Future.」という言葉が僕の人生をすごく表すものだなと思っているので、それに向けてやるべきことをやるだけだと思っています。ちょっと怠惰なところがあるので、疲れてしまわないようにしながら、ときに遊びを交えながら、何とかして目指している世界観を作っていきたいなと思っています。
ゲストプロフィール
米原博章さん
筑波大学アスレチックデパートメント NPO法人ボウタカ
1993年9月11日生まれ(27歳) 茨城県つくば市 – 香川県観音寺市 – 福岡県福岡市生まれ
■専門競技 ・棒高跳 (陸上競技)
■指導歴 棒高跳コーチとして、全国の合宿や練習会で指導 (全国高校選抜合宿、都道府県強化合宿、民間陸上クラブ主催練習会など) ・2018年8月~2019年5月 ライス大学ボランティアコーチ(陸上競技部)
【体験エピソード1】
棒高跳との出会い 競技への没頭 コーチングへの関心(研究室) 研究、競技者、指導者の面から競技と関わる
【体験エピソード2】
アメリカへの留学 世界一のコーチになるために アメリカの大学スポーツを目の当たりにして 大きな衝撃を受ける
【体験エピソード3】
大学時代の活動「Waisportsジャパン」 Good Sports, Good Future. スポーツ環境デザイン(スポーツを通じた人づくり、場づくり、街づくり) スポーツの使い方を実践の中で学ぶ
現在の想いと活動内容
① 筑波大学アスレチックデパートメント
日本の学校スポーツの可能性を最大化する 日本におけるスポーツの課題は、「学校スポーツ」のあり方にある 未来に向けて「学校スポーツ」をアップデートしなければ、スポーツの未来、日本の未来が危うい
② NPO法人ボウタカ
棒高跳で世界一の選手を生むために 全てのリソースの共有 棒高跳を通じて、感動を生むための土壌づくり そして、全員で日本の競技環境を創り上げる機運が必要 また世界トップとの橋渡し全ての道は「Good Sports, Good Future.」につながる
「納得解」を得てもらいスポーツ環境をより良くする~有田祥太さん~
子どもが主体的にプレーできるより良い野球チームを目指して~矢田部義行さん~
スポーツに潜む子どもたちの将来における可能性~宇田川和彦コーチ~
子どものやる気を育み大人の想像を超える人を育む~青野祥人さん~
スポーツコーチ同士の学びの場『ダブル・ゴール・コーチングセッション』
NPO法人スポーツコーチング・イニシアチブではこれまで、長年スポーツコーチの学びの場を提供してきました。この中で、スポーツコーチ同士の対話が持つパワーを目の当たりにし、お互いに学び合うことの素晴らしさを経験しています。
答えの無いスポーツコーチの葛藤について、さまざまな対話を重ねながら現場に持ち帰るヒントを得られる場にしたいと考えています。
主なテーマとしては、子ども・選手の『勝利』と『人間的成長』の両立を目指したダブル・ゴール・コーチングをベースとしながら、さまざまな競技の指導者が集まり対話をしたいと考えています。
開催頻度は毎週開催しておりますので、ご興味がある方は下記ボタンから詳しい内容をチェックしてみてください。
ダブル・ゴール・コーチングに関する書籍
NPO法人スポーツコーチング・イニシアチブでは、子ども・選手の『勝利と人間的成長の両立』を目指したダブル・ゴールの実現に向けて日々活動しています。
このダブル・ゴールという考え方は、米NPO法人Positive Coaching Allianceが提唱しており、アメリカのユーススポーツのスタンダードそのものを変革したとされています。
このダブル・ゴールコーチングの書籍は、日本語で出版されている2冊の本があります。
エッセンシャル版書籍『ダブル・ゴール・コーチングの持つパワー』
序文 フィル・ジャクソン
第1章:コーチとして次の世代に引き継ぐもの
第2章:ダブル・ゴール・コーチ®
第3章:熟達達成のためのELMツリーを用いたコーチング
第4章:熟達達成のためのELMツリー実践ツールキット
第5章:スポーツ選手の感情タンク
第6章:感情タンク実践ツールキット
第7章:スポーツマンシップの先にあるもの:試合への敬意
第8章:試合への敬意の実践ツールキット
第9章:ダブル・ゴール・コーチのためのケーススタディ(10選)
第10章:コーチとして次の世代に引き継ぐものを再考する
本格版書籍『ダブル・ゴール・コーチ(東洋館出版社)』
元ラグビー日本代表主将、廣瀬俊朗氏絶賛! 。勝つことを目指しつつ、スポーツを通じて人生の教訓や健やかな人格形成のために必要なことを教えるために、何をどうすればよいのかを解説する。全米で絶賛されたユーススポーツコーチングの教科書、待望の邦訳! 子どもの頃に始めたスポーツ。大好きだったその競技を、親やコーチの厳しい指導に嫌気がさして辞めてしまう子がいる。あまりにも勝利を優先させるコーチの指導は、ときとして子どもにその競技そのものを嫌いにさせてしまうことがある。それはあまりにも悲しい出来事だ。 一方で、コーチの指導法一つで、スポーツだけでなく人生においても大きな糧になる素晴らしい体験もできる。本書はスポーツのみならず、人生の勝者を育てるためにはどうすればいいのかを詳述した本である。
ユーススポーツにおける課題に関する書籍『スポーツの世界から暴力をなくす30の方法』
バレーが嫌いだったけれど、バレーがなければ成長できなかった。だからこそスポーツを本気で変えたい。暴力暴言なしでも絶対強くなれる。「監督が怒ってはいけない大会」代表理事・益子直美) ーーーーー 数えきれないほど叩かれました。 集合の際に呼ばれて、みんなの目の前で顔を。 血が出てたんですけれど、監督が殴るのは止まらなかった…… (ヒューマン・ライツ・ウォッチのアンケートから) ・殴る、はたく、蹴る、物でたたく ・過剰な食事の強要、水や食事の制限 ・罰としての行き過ぎたトレーニング ・罰としての短髪、坊主頭 ・上級生からの暴力·暴言 ・性虐待 ・暴言 暴力は、一種の指導方法として日本のスポーツ界に深く根付いている。 日本の悪しき危険な慣習をなくし、子どもの権利・安全・健康をまもる社会のしくみ・方法を、子どものスポーツ指導に関わる第一線の執筆陣が提案します。
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